こんにちは。うぇるちまんです。
前回に引き続き哲学します。
【「理解する」とは】
前回のテーマは「考える」でしたが、今回は「理解する」です。
「どうせ似たようなもんだろ」などと思っていませんか?
そうです。そのとおり。似たようなもんです。
日常生活の何をするにおいても「理解する」というのは必要ですよね。
相手の言葉を理解せずに会話をすることができますか?
もちろんできません。当たり前です。
そんなことができたとしたら英語の勉強なんかしてないです。
しかし今回は、その当たり前に対して疑問を投げかけます。
【中国語の部屋】
先述した「相手の言葉を理解しないと会話できない」ということを否定するのがこの「中国語の部屋」という有名な思考実験です。
まず、中国語を理解できない人を部屋に閉じ込めます。
その部屋には定期的に中国語で書かれたメッセージが届きます。
中国語がわからない彼にはもちろんメッセージの内容を理解することも、返事を書くこともできません。
しかし、その部屋には中国語に対して完璧に受け答えできる教科書があるとします。
すると彼は中国語を理解できてないにも関わらず中国語でメッセージのやり取りが可能になります。
その様子をはたから見れば、彼が完璧に中国語を理解しているように見えるでしょう。
これが「中国語の部屋」という思考実験です。
この実験は主に人工知能の分野で取り上げられるものですが、哲学の分野でも大きな問題です。
あなたは、普段会話している相手が本当に自分の言葉を理解していると確信を持って言えますか?
「ありがとう」と言われたら「どういたしまして」と返すようにプログラムされているだけという可能性を否定できますか?
これは独我論にも通じるものがありますね。
【暗記と理解】
さて、ここまで「相手は理解しているか」について書きましたが、ここからは「自分は理解しているか」について書きます。
あなたは1+1=2を理解していますか?
バカにするなとそう言いたいでしょう。
しかし、多くの人が知ってると思いますが1+1=2にはきちんとした証明があり、それは大学数学でやるそうです。
1+1=2という式を習うのは小学1年生です。
つまり、小学1年から高校3年までの12年間、1+1を完璧に理解しないまま算数または数学を勉強するのです。
これでもあなたは1+1=2を理解していると言えますか?
もしかすると僕たちは、物事のほとんどを理解しておらず「こう言われたらこう答えろ」というパターンを覚えているだけなのではないでしょうか?
ここまで掘り下げるともはや「自我」というものが何かすら怪しくなってきます。
デカルトの「我思う、ゆえに我あり」は、「考える自分」という確かな存在を決定づけるものですが、その「考える自分」自体が虚構である可能性までは触れていません。
【結論】
さて、長々と書いてきましたが冷静になってこの記事を一から見直して見てください。
この記事には一切意義はありません。
たとえ相手が自分の言葉を理解してなかろうが、会話が成立している以上なんの不具合も生じませんし、考えても仕方のないことです。
また、1+1=2なんて証明せずとも「1の一つ上が2である」と定義されているわけなので考えるまでもありません。
この記事を読んでいて「ああ、なるほど」と思った方はフェイクニュースなどに騙されて不確かな情報を拡散しないよう十分注意してください。
以上、情報リテラシーの授業でした。
あとがき
中身がなくてもそれっぽいことを書いてるだけでそれっぽくなります。
中身のない文章を作るのは得意です。
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